目 次
35歳でパリに散った画家の足跡
モディリニアーニの迫力に迫るキーワード
エコール・ド・パリを代表する画家、アメデオ・モディリアーニ――35歳でこの世を去った孤高の画家が残した数々の傑作は、そのほとんどが肖像画でした。 瞳を描かずしてモデルの内面を鋭くえぐるこの画家の魅力を、そのあゆみから探ります。
モディリアーニは、1884年7月12日、イタリア、トスカーナ地方のリヴォルノに生まれました。遠く対岸にコルシカ島を望む美しい港町です。父フラミニ オは、仲買業を営むユダヤ人、母エウジェニアは、スペイン系ユダヤ人の名門ガルシン家の出身で、高い教養と文学的素養を持ち合わせた人でした。兄二人、姉 一人の末っ子だったモディリアーニは、家族の愛につつまれて幸せに育ちました。幼い頃の呼び名は「デド」。自分の名前「アメデオ」をうまく発音できずにそ う呼んでいたためだそうです。
14歳になったデドは、芸術の道に目覚め、デッサンの本格的な勉強をはじめました。しかし、その修行は2年後に中断を迫られます。
その後もモディリアーニを苦しめ続けることとなる肺病のためでした。心優しき母エウジェニアは、療養のためにと17歳の少年を旅に連れます。ナポリ、カプ リ、アマルフィ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア(ローマ以降は一人旅)と南イタリアを中心に長期にわたる旅は、偉大なるイタリアの巨匠たちの作品に 触れる刺激に満ちた美的体験でもありました。その後、創作意欲をかき立てられた少年は、フィレンツェ、次にヴェネツィアの美術学校で人体を学びます。美術 に対するどん欲な姿勢のなかで、彼が深く啓示を受けたのは、14世紀シエナ派の彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノの造形の確かさでした。円筒形の頸、顔の ななめの配置といった、のちのモディリアーニの絵画に容易にみてとれる表現もさることながら、単に線を輪郭として引くのではなく、「ヴォリューム(量感) を構成し得る力」や、「マッス(肉塊)を集約して重みを強調し得る力」を持つものとして線の可能性もカマイーノの作品から学び取ったのです。
彫 刻
モディリアーニがパリに渡ったのは、1906年の冬、21歳の時です。芸術家がたくさん集まるモンマルトルにアトリエを
借り、画家としてスタートを切りました。ところが、気品高いユダヤの青年は、1年も経たぬうちに挫折し、アルコールと麻薬に溺れてしまいます。ユダヤ人な らではの厳格さやイタリアの伝統といった知らず知らずのうちに身に付いた保守性が彼をパリの輝きになかなか馴染ませなかったようです。
やがてモンマルトルを放浪するボヘミアンと化した青年は、「洗濯船バトー・ラヴォワール」に転がり込みます。「洗濯船」とは、貧しく若き画家たちが住んで いた集合アトリエの通称。ここで、ピカソやドンゲン、マックス・ジャコブ、アポリネール、ユトリロら芸術家や文筆家と知り合い、しだいにパリの空気に慣れ はじめました。また、持ち前の育ちの良さと甘いマスクは女性のみならず多くの人を惹きつけ、たちまち人気者となり、自らの輝きを取り戻すこととなったので す。
興味深いことに、フォーヴィスム(野獣派)のさなか、キュビスムが現れはじめたこの頃にあって、モディリアーニの作品にそれらの反映はさほど見られませ ん。彼は、すでに物故のゴーギャンやセザンヌら印象派の経験を過ぎて、力強く構築された建築的空間構成に強い関心を示していたのです。
1909年、偉大なる彫刻家ブランクーシ(ルーマニア)との出会いにより、彫刻家の牙城モンパルナスのシテ・ファルギエールに居を移し、一転、彫刻に没頭 することとなります。当時流行したアフリカの民族彫刻や古代エジプト・ギリシャの彫像にモディリアーニもまた魅せられ、垂直にのびる造形表現を追求しまし た。しかし、石材は経費がかさみ、また飛び散る石塵は虚弱な肺をさらに痛めたため、彫刻をあきらめざるを得ませんでした。しかし、彫刻制作において培った 簡潔な描写、端的な表現によるフォルムは、後に独自の絵画スタイルを構築する上での欠かすことのできない大きな糧となったのです。
ジャンヌ
1916年、12月、ついに運命的な出会いを果たします。14歳年下のジャンヌ・エビュテルヌとの出会いです。
コラロッシ研究所に通う画学生だったジャンヌは、小柄で華奢な体つき、青い瞳のおとなしい女性だったといわれていますが、残された肖像写真には、知的で聡 明な姿も映し出されています。赤みがかった栗色の長い髪だったため周囲からは「椰子の実」とあだ名されていました。そんなかわいらしい女性ジャンヌに魅了 されたモディリアーニは言葉少なにその想いを打ち明け、二人の恋が始まりました。しかし、熱心なローマン・カトリックの信者であったジャンヌの父は、ユダ ヤ人であるモディリアーニとの仲を認めませんでした。彼の女性関係が奔放であったことも関わっていたかもしれません。それでもジャンヌは親の反対を押し切 り、二人の幸せな生活を夢見、家を飛び出しました。
ところが、ジャンヌの深い愛情をもってしてもモディリアーニの品行はなかなか更生されませんでした。素直で従順なジャンヌの態度は、ときにモディリアーニ をいらだたせたようで、カフェでのんだくれていたとき、迎えにきてくれたジャンヌを怒鳴り、殴ったとも伝えられています。たとえ、ほかの女性とのあいだに 子どもが生まれても、ジャンヌはじっと耐え忍びました。
モディリアーニは、幼い頃から愛されることに慣れ、愛することに不得手だったたのかもしれません。ジャンヌを描いた作品は油彩だけでおよそ30点ありま す。これは、ほかの誰よりも多い数字で、献身的な愛に対する画家なりの応えが自然と表れた結果とも言えるでしょう。
ニース
二人の生活はけっして安定したものではなかったけれど、それでもジャンヌは画家を支え続け、画家はキャンヴァスに彼女を写し続けました。この不器用な二人 の愛を温かく見守っていたのが、ポーランド出身のレオポルド・ズボロフスキーです。モディリアーニの生涯でたった一度の個展は、この画商の尽力によって開 催されています。残念ながら、戦下の厳しい検閲により、描かれた裸婦像が風紀を乱すとの理由ですぐに閉じられることとなりましたが…。
さて、二人がいっしょになった翌年、ジャンヌは子を身ごもりました。それを知ったズボロフスキーは、折からの世界大戦の不穏もあって、ジャンヌの両親との 協議の末、二人を南仏へ連れ出しました。はじめはニースに、のちにカーニュに暮らします。生活費はズボロフスキーが援助してくれました。
ここで、心身共に健全を取り戻した画家は、活発に制作するようになります。穏やかな光とジャンヌの愛にくるまれ、幸せな日々を送ったことでしょう。秋の終 わりには、同じジャンヌと名付けられた女の子が生まれました。しかし、そんな安寧も長くは続きませんでした。
パリに戻ったモディリアーニの健康状態は、悪化の一途でした。そして、1920年1月、つ
いにアトリエで倒れ、スーチンらによって病院に運ばれるも、24日夜、帰らぬ人となってしまいます。35歳、あまりにも早い死の訪れでした。いや、短命を 予感していたからこそ、世の趨勢に惑わされることなく、自身の芸術を追求してこれたのかもしれません。ようやくそれが認められ、絵が売れ始めた矢先のこと でした。
悲劇はそれにとどまりません。ジャンヌは8ヵ月の身重でした。ニースで産んだ幼子もいます。喪失と絶望…一人の画家にすべてを捧げた21歳の女性に、もは やほかに生きる道は見いだせなかったのでしょう。モディリアーニの死の翌未明(26日早朝)、両親が住むアパルトマンの6階から自ら身を投げ、彼の後を追 いました。永遠に画家のモデルとなるために。エビュテルヌ家の事情もあって、別々に埋葬されましたが、10年後、二人は合葬され、いつまでも安らかにより 添うこととなりました。
展覧会情報
モディリアーニと妻ジャンヌの物語展
モンパルナスに咲いた愛と悲劇
会 期:2007年6月9日(土)~8月5日(日)
会 場:札幌芸術の森美術館
主催:札幌芸術の森美術館、HBC北海道放送、北海道新聞社、財団法人札幌市芸術文化財団
後援:フランス大使館、イタリア大使館、札幌市、北海道教育委員会、札幌市教育委員会
協賛:大日本印刷
協力:全日本空輸
企画協力:イデア・ジャポン







