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版画家 大本靖アトリエインタビュー
山の鼓動を聴きながら

版画家 大本靖
版画家 大本靖
▲第12回全道展(1957年)会場にて、自作を前に

北海道版画界のリーダー的存在として活躍してきた札幌在住の版画家・大本靖。彼の洗練された造形感覚によって繊細かつダイナミックに表現された北の自然 は、迫力をもって観るものを魅了します。初の大規模な回顧展「大本靖展山の鼓動、樹々のうた」の開催に先立ち、初夏の日差しが眩しいアトリエにて、大本氏 の版画家としてのこれまでの歩み、制作への想いについて、お話を伺いました。


芸術に惹かれて


今日はどうぞよろしくお願いい たします。今回の展覧会は、先生の初期の作品も含めてご紹介する回顧展になります。そこで、まずは過去を振り返っていただいて、先生の版画家としてのこれ までについてお話を伺いたいと思います。先生は小樽にお生まれになったそうですが、芸術家を志されたのには特別なきっかけがあったのでしょうか。


■大本
絵は小さい頃から好きなことは好きでした。子供の頃はそれで食べていこうなんて思ってはいませんでしたが。
ちょうど戦中戦後が青春時代でしたから、戦前の教育はも
うゼロにして、もう一回勉強し直そうということで上京したんです。親が商売をやっていましたし、絵の方も前から好きでしたから、どちらか結論を出そうとい う気持ちもあって東京へ行きました。ただ、当時はちょうど旧制から新制に教育のシステムが変わった頃で、僕が行ったときには東京藝術大学の募集がなかった んですよ。そういうことで、美術の専門ではない大学へ行きました。


明治大学の商学部に通われていたんでしたね。絵の方はどうされたんですか。
大学に通いながら、阿佐ヶ谷の絵画研究所に通って、デッサンなんかもやっていました。好きな道をやっていたということですね。芸大への挑戦も考えたのです が、そうしているうちに東京にも慣れたし、やっぱり戻ろうと。アルバイトでシルクスクリーンの基本も覚えていたし、ちょうど独立したいと言っていた兄と一 緒に札幌で印刷の仕事を始めました。札幌では特殊印刷のはしりの仕事ですよ。

では、本格的に版画を始められたのはいつ頃からですか。
シルクスクリーンで、それらしいものをつくったんです。普通のシルクの印刷ではなくて、インキに砂を混ぜてボリュームのあるキャンバスをつくってね。 1954年に日本版画協会展という公募展が東京であったので、出してみようということで。

それが初めての本格的な版画作品なのですね。いわば独学で、アルバイトで 身につけたシルクスクリーンの技法とご自身の創意工夫で制作されたこの作品が、このとき入選を果たしていますね。
そうなんです。懇親会で、有名な恩地孝四郎や平塚運一という大先生に激励されましてね。また、その方たちの人物がいいものだから、こういう団体に参加して いきたくて、版画を続けるようになりました。


版画家として歩む


そして札幌でも制作を続けられるわけですね。木版画に取り組まれたのは札 幌に戻られて
からと伺っています。

はい。それから木版を始めました。シルクスクリーンの仕事をしながら、同時に、北海道新聞の木版画のカットや企業のPR誌のカットを手がけたんです。それ から、読売新聞の事件現場や、ラジオ・テレビの案内欄のカット、そういう依頼が重なってきて、だんだんと本格的に木版に取り組むようになり、印刷の仕事か らは離れていきました。

《作品No.45》1957年ステンシル(モノタイプ)
▲《作品No.45》1957年ステンシル(モノタイプ) 北海道立近代美術館蔵

版画家 大本靖
《石庭E》1968年
▲《石庭E》1968年 木版・紙 作家蔵

《ISHIKARI》1972年▲《ISHIKARI》1972年 木版・紙 作家蔵

木版にはシルクスクリーンとは違った魅力があったのでは?
板と和紙の馴染み合いみたいなね、味というか、そういうものが木版にはありますね。でもその当時、専門の材料なんて手に入りませんでした。和紙や鳥子紙も みんな本州へ注文して送ってもらっていましたからね。ほとんど独学で制作していたんです。

では、この人の作品を見て版画家を志したというような、特別に影響を受け た作家は。
作家として、人物より、その作品に惚れたというのは、油絵で二科会の会員の山口長男氏、それから、行動美術協会の津高和一氏です。

お二人とも画家ですね。芸術家として敬意を払う人はいても、特に版画の世 界でこの人をお手本に、ということはなく、独学で、独自のスタイルを確立されていったのですね。
あまり好きになって影響されると嫌なものですから。斎藤清さん、今年亡くなった北岡文雄さんなんかも、真似をしようとは思わないけれども、乗り越えるよう な気持ちで頑張りはしますよ。北岡さんは、札幌にも何年かいたし、東京でお会いしたりアドバイスを受けたりということで、一番近しい先輩でした。

そうした先輩方に出会い、尊敬しながらも、影響を受けすぎず、ご自身のオ リジナリティーを目指されたのですね。また、札幌に戻られてすぐ、1954年に札幌版画協会を設立されています。
初めて東京で日本版画協会に出して、激励を受けたものだから、札幌でつくろうということで。3年目には、北海道で版画に取り組んでいる人たちに呼びかけ て、北海道版画展を始めました。僕が戻った当時は、札幌で版画を制作していた人は皆無に等しいのではないですか。東京芸大でも教えていなかったくらいです から。材料を探しては、東京なり関西なりから取り寄せて、何とかしてやりましたけどね。

札幌版画協会が札幌に版画芸術を普及させる役割を担ったんですね。そのよ うに情熱を傾けてこられた木版画ですが、もともとは絵を描かれていた先生にとって、筆で直接絵を描くことと比べ、下絵を描いて木に彫り、紙に刷るという木 版画に特有の魅力というのはどこにあったのでしょう。
即効性が少ないんですね。描いた筆のタッチやそれを生かすということよりも、計算して、板に転写して彫り上げていくのが版画ですが、やはり大事なのは、刷りです。
50%ぐらいを占めるのではないですか。

刷ったときの結果を予想し、計算しながら、下絵を描き、木に彫って、刷り にもっていくという過程が木版画の醍醐味なんですね。


かたちの追求


それでは、先生の作品について具体的にお伺いしていきます。これまでの作品を拝見すると、作風が非常に多彩です。初期の抽象作品にはどういったテーマが あったのでしょうか。
昭和新山ですね。最初に取り組みたいと思ったのが昭和新山で、あの山の持っているものが何か見出したくて、数多くスケッチに登ったんですよ。それから、現 代の目ということですね。大正時代にはなかった自然の山ですからね。時代性というのは必ずどの名作にもあるわけで、それを意識しました。有機質でない、無 機質としての昭和新山に対しての取り組みを、現代的な視点で見せたかった。らは離れていきました。


なるほど。抽象作品のモチーフが昭和新山というのは意外でした。
そして、あの力強さを抽象で表現しようというときに、ちょうど上野でマティス展があったんです。戦後初めての世界的な一流作家の展覧会ですね。それと、宗 達・光琳展が向かいの博物館でありました。それぞれに力強い感動を得て、大きい作品に取り組んだんです。それが形に出たのでしょうか、友人が僕の作品のこ の抽象的な形が、夜、夢に出てうなされたって言うんですよ。我ながらびっくりしましたが。

そうお聞きしてみると、マティスや琳派の装飾性・平面性、形の力強い構成と、先生の昭和新山をモチーフにした作品にどこか通じるところがあるようにも思え ます。

ええ。山の三角のフォルムがつい出てくるわけで、それを生かすためにデッサンを盛んにやったのです。矩形の中で何か抽象的な形をこう並べてみて、かみ合っ て、でき上がっていくのが作品だと思うし、平面表現の中で無限に広がりがあるものは展開できないだろうかと、いろいろ転がしてみて一番いい形を見出そうと していました。

山のフォルムを分解し、再構成して、抽象的な表現が生まれてきたのです ね。
昭和新山はだいぶ上まで登ったんですよ。あの頃はまだ、熱い蒸気が出ていました。その山の中で、鼓動が体に通じるのでしょうね。僕はあまり音楽は知らない のですが、バックのドンドンというあの低音が体に響くのと同じような感動を受けたんです。それを形にしようとした。

フォルムと同時に、山の鼓動、響きといったものも形として表したのです ね。また、印象的な作品として、1960年代後半の石庭のシリーズがあります。こちらもモチーフは具象ですが、石庭の模様が平面的に表現されていますね。
私も西洋美術はだいぶ見ましたけれども、いわゆる洋画を日本でやるよりも、日本が伝統的に持っている抽象的な解釈のものがあるはずだから、それに取り組ん でみようとしたのが石庭です。アメリカから来た版画を勉強したいという作家と一緒に京都へ行く機会があり、枯山水を回ったのですよ。すると、彼や私の受け 取り方が印象深く、作品にしようということで、抽象の考え方でやりました。そもそも、戦後10年、20年ぐらいは、抽象の時代でしたしね。
抽象をやらなかったら絵描きではない、というような。

ただその抽象表現を、西洋から持ってきたものではなく、日本の造形の中に ある抽象性から追求されたということなんですね。


風を見つめて


さて、一方1970年代には《ISHIKARI》のような海をモチーフにした具象の作品を作られています。それまでの作品から一変してどこか幻想的な雰囲 気の作品です。
大きな太平洋の片隅に、ちょこちょこっと小さい島があるところが自分のいる ところだという意識を持つようになり、足元を見つめてみようと。それで石狩をテーマに何度も訪れました。浜益とか、茫漠とした、何もないところに。

《マッカリの山》1993年
▲《マッカリの山》1993年 木版・紙 作家蔵

《大雪山と花》1987年
▲《大雪山と花》1987年 木版 作家蔵

《しんざん》1999年▲《しんざん》1999年 木版・紙 作家蔵

北海道の風土というテーマがより明確に意識されるようになったのですね。1980年代の後半には、具象のダイナミックな北海道の山々が数 多く登場してきます。山というモチーフは、先生にとってどんな意味を持っていますか。
大雪山に魅了されたのです。稚内へ汽車で行く途中に見えた大雪連山が、真っ白でね。その印象が強くて、スケッチをしに行きました。グループのなかに山男が いたので、案内してもらってね。20年近く大雪山ばかり登りました。

作品になると、遠くから離れて 見るビジュアルとしての山ですが、実際の登山体験が制作に結びついているところはありますか。
あまり表面的な影響はないんですよ。登って、テントの中できらめく星を眺めていると、力強い鼓動を感じるんですよね。縦走するわけでもないし、頂上に行っ てまた戻ってくるわけでもないんですよ。頂上近くのキャンプ場を起点に、二、三日スケッチをして戻ってくるという、そういうスケッチ登山です。それで大雪 山には馴染んでいるのですが、それを直接画題にというよりも、何か強い印象を受けた中から、自分なりのテーマが出てくればいいのであって、見た山をこう描 いて、という説明的なことではないんです。

作品制作のインスピレーション の源として、山や自然の存在があるのですね。あえて北海道を拠点に定められたのは、そのあたりの思い入れもあるのでしょうか。
育ててくれた北海道に、大雪山があって、その上を風がさぁっと通っていてね、この町を歩いていたら、その風が頬にすり抜けていった――そういうことに愛着 があるんですね。

北海道という風土への愛着です ね。では、少しこれからのことをお伺いします。これまで先生の作風は多彩に変遷してきましたが、今後の表現についてはどうお考えですか。
長い間に制作した作品を振り返ると、スタイルはいろいろあります。それを多少でも融合して、もっと魅力的なものができないかと考えています。だんだんひと りでつくるのは難しくなってきましたが、大きい作品を発表することも考えています。

いろいろとアイデアをお持ちの ようですね。最後に、これからの目標をお聞かせいただければと思います。
魅力ある素敵な作品をつくること、それが最上の目的ですね。普通に働いて、老後はのんびりとやるものなのかもしれないけれども、そういうお金のことは全然 考えなかったからね。いいものをつくれば、それは売れるし、評価されると信じているからやれるわけで。それが全部叶うわけではないですけれどね。

魅力のある作品をつくること、シンプルですが、それを一番の大切な目的に、現在も制作を続けていらっしゃるのですね。本日は貴重なお話をありがとうござい ました。


2007年6月11日
札幌市円山西町のアトリエにて収録
(聞き手・編集 札幌芸術の森美術館学芸員 樋泉綾子)

展覧会情報
大本靖展 山の鼓動、樹々のうた
時を越えてめぐり逢う日米秘蔵コレクション  「白雪姫」、「ピノキオ」から「眠れる森の美女」まで

会 期:2007年10月6日(土)~11月25日(日)

主 催:札幌芸術の森美術館、北海道新聞社、財団法人札幌市芸術文化財団
後 援:札幌市、北海道教育委員会、札幌市教育委員会