有島武郎旧邸
▲有島武朗旧邸
札幌にゆかりの深い文豪、有島武郎。大正2年に建てられた邸宅を当時の姿そのままに芸術の森に移築復元しました。有島武郎の様々な資料を展示しています。
利用情報
■開館時間 午前9時45分~午後5時(6/1~8/31は午後5時30分まで)
■開館日 4月29日~11月3日の毎日
・11月4日~4月28日の毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)を除く毎日。
・見学希望がありましたら随時見学可能です。
■入館料 無料
ごあいさつ
有島武郎は近代日本文学を代表する優れた作家ですが、「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」「星座」などその代表作のほとんどが北海道・札幌を舞台にしており、これらの作品が北海道文化に与えた影響の大きさには計り知れないものがあります。北海道文学の恩人といわれるゆえんです。 このことは、札幌農学校学生時代と母校東北帝国大学農科大学教授時代の合せて12年間にわたる、その生涯の最も重要な青・壮年期を札幌で過したからにほかなりません。手帳のなかに「我が真生命の生れし故郷ハ実ニ札幌なりき」と記しているように、この地を愛した武郎でした。大正2年、永住する気持ちで有島本人のプランをもとに設計された大きな家を建てましたが、それがこの家です。 愛妻が病に倒れたため心ならずも札幌を去ったあと、この家はいくつかの曲折を経て戦後の昭和35年からは北海道大学の所有となり「有島寮」として利用していました。昭和58年、北大では廃寮と同時に取りこわすことになりましたが、これを惜しみ保存を望む市民の動きも起きました。 この建物が文学史的にはもとより建築史的にも大正期を代表する貴重なものであることに思いをいたし、ここ「札幌芸術の森」に復元して札幌の誇る文化的遺産として永久に保存することにいたしました。
有島武郎略年譜
明治11年(1878) 東京で有島武・幸子の長男として生る。有島生馬、里見弴は実弟。 明治29年18歳、7月、学習院中等科を卒業。9月、札幌農学校予科5年級に編入学。 明治30年9月、農学校本科に進む。翌年父武が狩太村(現・ニセコ町)に農地(有島農場)の取得を出願。 明治32年2月、基督教入信を決意する。 明治33年秋ごろから遠友夜学校とかかわりを持つ。 明治34年3月、札幌独立教会に正式入会。7月、札幌農学校を卒業して離札。 36年から40年にかけて米国留学。 明治40年12月、東北帝国大学農科大学(札幌農学校昇格)英語講師となる。 明治41年(1908)30歳、1月、札幌赴任。3月、学生監部勤務(恵迪寮舎監)。6月、大学予科教授となる。 明治42年1月、遠友夜学校代表となる。3月、陸軍中将神尾光臣次女安子と結婚。 明治43年4月、「白樺」創刊。5月、札幌独立基督教会を退会。8月、豊平川右岸の上白石村(現・白石区菊水一条)に移る。 明治44年1月に長男行光(俳優森雅之)、翌年7月に次男敏行誕生。 大正2年(1912)35歳、8月、北12条西3丁目の新居(札幌芸術の森復元)に移る。12月、三男行三生る。 大正3年9月、妻安子が発病(肺結核)。11月、札幌生活を切り上げて上京。 大正4年3月、農科大学に辞表を提出。 大正5年8月、妻安子、12月父武を喪う。本格的文学者としての道を歩み出す。 大正6年7月、「カインの末裔」を発表。大正7年1月、「小さき者へ」を発表。3月から「生まれ出づる悩み」を連載する。 大正8年3月、「或る女」の前編を刊行。 大正11年5月、「星座」を刊行。7月有島農場の解放を宣言。10月、個人雑誌「泉」を創刊。 大正12年(1923)45歳、6月9日軽井沢の浄月庵で、波多野秋子と死す。
建設の経緯
有島武郎は大正2年8月、北12条西3丁目に自邸を新築した。八月竣功から逆算して、同年早春ないし前年秋に着工したと推定される。 有島武郎は新居建築にあたって、自ら積極的に設計構想を練ったらしい。専門の建築家のアドヴァイスを受けるようなことがあったかも知れないが、間取りや部屋の和洋折衷の造りはもとより、屋根や窓のデザインなどまで有島が決めたと考えるほうがあたっていよう。
(註)
有島邸工事中の大正2年、エンジェル館、小田良治邸工事のため、J・M・ガードナーの助手、荒木賢治(1881~1948)が札幌に滞在しており、新聞に有島邸と一緒に紹介されている。
建物の特徴
有島邸は腰折れ屋根=マンサード屋根=をかけ、小屋裏を二階にあてている。マンサード屋根住宅は大正以降の札幌で流行するが、有島邸は最も早い例である。 有島邸はモダンな洋風住宅の先駆けとなるものであった。
建物の復元
今回の移築にあたって、できるだけ創建時の姿に復するようにつとめたが、二・三説明を要する点もある。
1.外壁の赤褐色ペイントは、残存塗膜から確認されたが、新築当初は白木のままであったらしい。竣功後数年のうちにこの色に塗られたと推定される。
2.もとの屋根の色は不明である。
3.台所は使用上、休憩室にされているが、もとの姿は旧写真を見ていただきたい。
4.裏口まわりは資料がなく、正確な復元はできなかった。
越野 武










